2006.3月の先週のハイライト

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06.03.22.

とうとう、一ヶ月経ってしまいました。  長い間、ご無沙汰しました。
この一ヶ月、ナカナカ筆が(マウスが?)進みませんでした。
身の周りで、お悔やみが続いたのが原因かもしれません。
一番、堪えたのが、薫風舎の守分ますみさんが亡くなったことです。

5年ほど前から、《病》と付き合ってきたのですが、とうとう、《病》とだけではなく、
愛された全ての人たちとも別れて、往ってしまいました。
でも、苦しかったはずの5年の間も、前向きなますみさんは、いつでも笑顔を絶やさず、
見舞いに行った筈の私たちを元気付けてくれました。

『出来るだけ大好きな美瑛に居たい』という思いから、
ピアノを自由に弾ける《離れ》をつくったり、歩行が困難になってからは、
プライベートスペースを改修して、自力で動き易くするなど、
いろいろと相談には乗っていたのですが・・・。

昨年の暮に美瑛にお邪魔した時にも、我が家の愛犬《菊治丸》の話で盛り上がり、
年が明けたら、菊次丸をつれて会いに行こうと思っていた矢先の出来事でした。
もう少しで春になり、春になったら、という家族の思いは、とうとう、届きませんでした。
それでも、ご家族の皆さんから、『家を直して貰ったので、美瑛で往くことが出来ました』
と言われたのが、一縷の慰めではありました。

12年前に、守分さん達とお会いして、敷地を見せてもらい、
美瑛の素晴らしさを伝えようと、一生懸命案内してくれた時のことを、
昨日の事のように思い出します。
深夜に札幌に戻り、ファミリーレストランで食事をしながら、《夢のペンション》のことを、
楽しそうに、熱く熱くお話してくれた、ますみさんが、もういないとは信じられません。

守分さんの関係で設計した家がたくさんあります。
ご両親の月寒の家もそうですし、
それまで住んでいた家(守分さん姉妹の育った家)を妹さん夫婦が代わって住むというので、
改修もお手伝いさせてもらいました。

ご両親の家の隣にお住まいのSさんを紹介してもらい、
《中の沢の家》を設計することになったのも、守分さんのご縁でした。
《中の沢の家》を気に入っていただき、
ニセコのFさんの《ギャラリー付きの別荘》や
蘭越の《Iさんの家》を設計することになったのも、
辿って行くと守分さんに行き着きます。
アルクムの『癒しの家シリーズ(リプランの三木編集長の命名)』の源泉はここにあるのです。
守分さんの友人関係の広がりもたくさんあります。
長沼の《Kさんの家》、Kさんの紹介で、余市の《W さんの家》・長沼の《Tさんの家》。

もちろん、《薫風舎》のファンの方の家は、たくさんあります。
昨年出来た7軒の家の半数が、偶然にも《薫風舎》のファンでした。

自然が好きで、動物が好きで、音楽が好きで、食べることが好きで、
集まってくる全ての人から愛された、ますみさん、本当にサヨウナラ (合掌)

チョットひとこと。(がっしょう)で変換したら、(合唱)と出ました。
合唱の大好きだった、ますみさんの、イタズラでしょうか?   蛇足でした。

↑薫風舎



06.03.27

先週は、セミナー週間でした。
金曜日には、上遠野先生と圓山さんの《師弟対談》が
『札幌スタイル』の連続セミナー最終回として行われました。
いつもであれば、3〜50人の参加者が、
北海道建築界の巨頭会談ということで、
100人を超える盛況でした。

上遠野先生の作品をスライドで見ながら、
圓山さんの質問や設計当時の秘話
(圓山さんは上遠野事務所の初代?所員でした)
を交えながらの進行で、和やかな中にも緊張した空気が漂い、
『若い建築家へのメッセージ』という主旨が感じられました。

スライドに映し出された《端正なプロポーションの立面》が、
先生の《背筋の伸びたシャキッとした姿勢》とダブって見えます。
これからの時代に、このような建築(又は建築家)が生まれてくることは、
残念ながら、キット難しいように思います。

話の中で、先生の設計した住宅のほとんどが、
大事に使われていると聞き、安心したと同時に、
これから守っていくことも、私たち後輩の仕事だと、改めて思いました。

川沿にある自邸は、《ドコモモ100選》という世界的な認定機関に登録され
(北海道では《旭川市役所》と、《上遠野邸》の二つだけ)、
社会的にも個人的にも残る道筋はつきましたが、
その他の作品は、住宅という性格上、保存の道には厳しいものがあります。

セミナー終了後、
今までセミナーの講師を勤めた建築家
(私も去年の4月(
2005.4月の先週のハイライト05.04.22参照)に務めました)、
約40人が反省会を開きましたが、
誰一人として、反省などしていませんでした。


土曜日には、大阪の建築家・竹原義二さんのセミナーがありました。
プロフィール等(JIA登録建築家のページ))
彼は、今でこそ、住宅を中心に密度の高い設計で有名な建築家ですが、
20年来の友人(その頃は未だ、お互いに作品も少なく、
会うとワイワイ酒を飲むだけでしたが)で、
たまたま、南幌で設計の仕事があり、
『出来上がったら見せて』という約束を、
見るだけではなく、折角だから皆で集まろうということになり、
JIAでセミナーを開きました。

『数奇屋はヨウ創れんから、民家を創る』
『民家は建てるもんではなく、積み上げるもんや』
数々の作品のスライドを見ながら語る言葉の端々から、
建築に対する熱い思いと、関西文化の奥深さが、ヒシヒシと伝わってきます。

『職人の腕を最大限引き出すのが建築家の仕事や』と、
飽く迄も伝統に根ざした技術を前提に物を創る姿勢は、見事です。
作品に酔ったのか、熱気に酔ったのか、
お酒に酔ったのか判りませんが、堪能しました。


日曜日には、南幌の作品を30人程で見学させてもらいました。
公営住宅から障害者施設へのコンバージョン(用途変更)です。
25年前の何処にでもあるような木造2階建ての公営住宅を、
北側の廊下の壁を取り払い、
南側にガラスの箱をくっつけて一体にしたような建物です。

↑右側と同じ建物のコンバージョンです


見慣れた私たちにはなんと云うことの無い、
どちらかというと余り印象の良くない公営住宅ですが、
竹原さんには北国の建物の原点のように魅力的に見えたのかも知れません。
今はもう使われなくなった集合煙突を残したのも、
そんな気持ちが現れています。


知的障害者の色彩感覚に敬意を払う竹原さんは、
彼らに対するメッセージとして、色を多用しています。
壁や家具もそうですが、光を通した色彩も演出に参加させています。
 

メキシコに3年前に一緒に見に行った、
ルイス・バラガンの建築を彷彿とさせます。
『北海道には色彩が似合うやろ?』と、にやっと笑います。
風除室を通ると建物全体を感じ取ることの出来るようなオープンなプランは、
障害を持った人をやさしく、そして自由に包み込んでくれるように思いました。
『施設を作るのではなく、彼らの家を創るんや』という、
前夜の言葉を思い出します。

『郷に入れば、郷に従う』ではありませんが、
透明な光と、乾燥した空気を的確に読み取って、
しっかりと竹原流の北国の建築にしているのは、
流石といえば、流石です。

私たちも、原点に立ち返って、ピュアな北国の建築を目差す必要がありそうです。


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