今までのハイライト 2004. 3月
04.03.01
●父の死
先週,20日,東京の父が亡くなりました。数えで90歳でした。5年前に,著としたことで入院したときに、院内感染で危篤になり、九死に一生をえて、それ以来病院嫌いになってしまいました。それでも、老いと自ら立ち向かい,車椅子に乗りながらも,毎年札幌に来て,設計した新しい建物を,孫と一緒に見るのを楽しみにしてくれました。去年の7月も,上富良野の後藤美術館を,私の兄妹夫婦(つまり,子供の家族)と父母6人で来るのを楽しみにしていたのですが,盲腸炎を起こし延期になってしまいました。この1月も,孫娘の結婚式に,介護つきの車椅子で出席して,彼女との約束を果たしたばかりでした。
そうはいっても、老いは確実に近着いてきていました。兄などは,『毎年年末年始は,入院騒ぎだなあ』と言っていましたが,母の様子を見て,週末にはとまって介護してくれました。妹も,何かにつけて,母に顔を見せ、手伝いをしながら喧嘩をしたり,買い物に付き合ったりしていたようです。
●死の時
そんな父が、18日の夜、痰を詰まらせて、一晩苦しんだ翌朝、母から電話があった。『ちょっと具合が悪いので、一応電話したの』声は落ち着いていた。今までも何度か、そんな電話はあったが、そのときは何故か、「きたかな」と感じた。フラノに向かう途中だったので、『用事を済ませたら帰るよ』と切った。昼過ぎ妹から再び電話があり、「意識が少しなくなってきたみたい」「すぐかえる」札幌に戻り、事務所で必要な伝達をして、いざという時の事を指示して家に帰り、身仕度を整える途中、一瞬、「喪服は?」と、心によぎるが、妻に言い残して、空港に向かう。羽田につき、タクシーに飛び乗る。合間合間にかかってくる携帯の、父の名の表示にドキッとする。10時30分家に着き、部屋に飛び込み手を握る。『あったかい』『待っててくれた』少し目が開き、口も少し動いた。『父さん、只今』と、うっすら涙がにじんできた。ベッドの廻りには、母や兄弟、孫4人がとりかこみ、父を呼ぶ。呼吸がだんだん遠のくようになったので、2階の先生を呼びにゆく。先生が来てくれ、脈を取り、心音を聞き、聴診器を当てる。肺の機能がかなり低下しているらしい。体温が上がったり下がったりしている。唇や足の先が、紫色になってきた。呼吸の止まっている時間が次第に長くなる。先生が脈を取り、『呼吸停止後4分経過しました。ご臨終です。死亡時刻は0時28分です』
●家で最期を迎えるということ
時間が止まったような瞬間の後、全員が父の名を呼びながら泣き伏す。介護の竹下さんや先生も、もらい泣きをしてくれている。どれくらいの時間が経ったろう、義姉の織江さんが、『足が白くなってる』と、妹が『あっ、唇も戻ってる』だれからともなく『やさしい顔だね』皆の気持ちがゆるんできたのが分かる。竹下さんが『お幸せそうなお顔ですね』といってくれる。皆で肌をさすりながら、父に、思い思いに話しかける。誰からともなく、『浴衣に着替えさせようよ』『そうだね』竹下さんが、『染谷さんは、これが気に入ってたから』と、だしてくれたゆかたを、皆で着せる。『きれいだね』『かっこいいよね』と孫達が誉める。
本当にそう思う。先生が『明朝、死亡診断書を書いてお持ちします。死因は心不全です。なるべく早く、葬儀社と連絡をとってください』といって戻られた。1時半を過ぎていたが、以前から前の中條さんから「なにかあったら、夜中でも、起こしてください」と言われていたので、連絡する。『葬儀社と一緒にすぐ行きます』30分後に見えて、簡単に清めて、遺体を座敷に移し、簡易の焼香台を設置して、かわるがわる焼香し、中條さんを交え、葬儀社の方とこれからのことを打合せする。朝一番にお寺さんに連絡を取り、葬儀の日取を決めるのが第一。9時半に再来を約して、3時半すぎ、二人帰る。私と姪が焼香の番をすることにして、みんな休む。父のとなりに寝た甥の寝息が、父のそれに聞こえ、「眠っているようね」と姪。
●そして葬儀
朝になり、お寺さんと連絡が取れ、葬儀は、1日空けて22・23日にきまり、いよいよ、葬儀社と本格的なスケジュール調整。その間に親戚縁者や業界知人の連絡。まずは式場を決めないと、案内できないということで、弔問の人数を聞かれるが、母は、「歳も歳だし、現役でもないので、きっとあまり来てくれないよ。敬老会の人も、もうお歳ダシ」と弱音をはきはじめる。葬儀社の人がすかさず「すこし小さめな式場を選んで、行列のできるお葬式にしたらいかがですか?」の一言で場が和み、即決。材木業界は組合の方が、町内会と敬老会関係は、中條さんが全てまとめてくれることになり、親戚をみんなで手分けをして連絡することにする。その日一日は、大騒ぎだったが、夜までにはなんとかめどが立ち、ホッと一息。夜はみんな枕元に集まり思い出話をし始める余裕が出る。最終の飛行機で着く家内を迎えに、羽田に行く。家内が父にお別れをしてから、父と二人で晩酌をする。お酒の好きだった父、数日前にビールをお変わりして、ぐあいの悪くなった父と、心置きなく酒を酌み交わす。「いくらのんでも、しかられないよ」
翌日からは、町内会の人や敬老会の人が、次々と焼香に来て、みんなの知らない父の話しをしてくれる。親戚も知らせを聞いて駆けつけて、昔話に花が咲く。涙と笑いが、交互に入り混じる。だんだんと笑いの割合が増え、時には爆笑に涙する。誰からともなく、『みんなで記念撮影をしよう』ということになり、しんみりモードと、にこやかモードの2枚を撮る。にぎやかが好きな父らしい雰囲気をとりもどす。次の日は午後に葬儀社の方が3人来て、旅の支度を施し、身内とお別れをして、式場まで移動する。実家をビルにする時、最初にケンカしたのが、お棺の乗るエレベーターを付けるかどうかだったことを思い出す。『最期まで親不孝な息子だったなあ』と、シュンとする。
そこからさきは、たぶん、ごく一般的な葬儀だったと思う。母の心配をよそに、行列のできる、少しにぎやかな葬式であった。
04.03.13
先週の土曜日に、JIA住宅部会の見学会が行われました。
アルクムの設計した、ニセコのFギャラリーと蘭越のIさんの家2軒と、
小室さんの設計した、蘭越のアグデパンケ農園住宅の3軒を見てきました。
参加者は25人ほどで、住宅としては、ちょうどというか、限界の人数でしたが、
いずれの住宅も、開放的なつくりになっていたので、
なんとか、分散せずに、見学できました。
それぞれに、特徴ある設計はもちろんですが、
個人的に一番面白く感じたのは、蘭越の2軒の住宅が、
「自然の中で住む」というおなじテーマにもかかわらず、
まったくちがったスタイルをしていたことです。
どっちがいいとか、どっちがすきとかいう問題ではなく、
やっぱり、ここにはこれ、あっちにはあれ、みたいな部分が大事だと感じました。
それはきっと、その土地の持っている力を、どう表現するか、なのでしょうが、
その前に、その土地を、どうして選んだのか、
の違いが大きいような気がするのです。
「設計が、建主との協同作業というのは、そういうことなんだよな」と、
自分の設計した建物を見て、一人で納得した、変な見学会でした。
ニセコFギャラリー 蘭越 I 邸
蘭越 I 邸 蘭越アグデパンケ農園住宅
それから、
報告が遅くなってしまいましたが、
以前お話した、JIAのコンペの結果が出ました。
最終選考の2人に選ばれたのです。
それで、見学会の前に、ニセコの敷地を見てきました。
思ったよりも、白樺の木が茂っていました。
すこし間引きしないと、痩せた樹木になってしまいそうです。
3月中に、計画案をまとめて、提出することになっております。
敷地の中で撮影した模型写真
がんばりますので、応援たのみます。
04.03.23
すでに、先々週になってしまいましたが、伊豆の熱海で3日間研修があったので、ついでのつもりで、伊勢志摩の羽島にある、『海の博物館』という建物を見に行って来ました。
もう、十年以上前に建った建物ですが、早稲田の1年後輩の内藤廣君という、とてもナイーブな建築家が設計し、数々の賞を受賞した建物なのですが、なにより見に行きたかったのは、その建物を設計しているときに、『染谷さん、ランドスケープは、土木屋に任せたらダメですよ。』と、自分に言い聞かせるようにいっていたのが忘れられず、「いつか見にいかなくては」と思いつづけていたのです。そのころ、私は、フラノの仕事が始まったばかりで、美しい自然の中を活かしながら、どうしたら建築をくみ入れることができるのか、模索していたときなので、「やっぱり、自分でいいと思ったようにやるしかないよね」と、曖昧な返事をした覚えがあります。
その後、彼は、等高線を崩さずに設計した、水戸の五浦にある、天心美術館や、高知の五台山の頂上に、木の葉を伏せたような、有機的かつ大胆な、牧野富太郎記念館と、矢継ぎ早に名作を残し、東京大学の、建築ではなく、土木の教授に迎えられました。
なんとも、みごとな生きざまではありませんか。
ついでのつもりで行った羽島は、熱海からでも、たっぷり五時間かかり、一泊の旅となりました。案内所で紹介された宿で、海の美術館のことを尋ねたら、『とっても素敵な建物ですよね』と女将にいわれ、我が事のようにうれしく思ったものです。
翌日、開館30分前につき、周囲をぐるぐると歩き回り、敷地と建物のなじみぐあいをみていると、10分前くらいにスタッフがきて、『もう少しお待ち下さい』といって、あおさ、という海苔のお吸物をちいさな茶碗に入れて出してくれました。館内に入り、一人で、志摩の海女の映画を見ました。何千年もかかって築き上げた、豊かで厳しい自然と人間の極限の関係が、そこにあるのがわかります。内藤君が目差したのは、それだったんだ、と了解しました。
そういえば、失われた、素朴で理想的な社会の人間関係を描いた、三島由紀夫の『潮騒』の舞台も、ここから船で渡った神島だったことに気づきました。
そんな思いをよそに、入り組んだ敷地に、まるで、千年も前からそこにあったように、海の美術館は、ひっそりと、そこに建っていました。
海の博物館外観1 外観2
海の博物館内観1 内観2
04.03.29
以前お話したニセコの別荘のコンペ案提出しました。
やっぱり,顔を見ずに設計するのは、からだによくありません。
何百戸のマンションを設計したら,病気になってしまうかもしれません。
(そんな依頼、あるわけないか)
でも、一生懸命やったので、いい結果が出て欲しいと思っています。
それから、いま、札幌にある某組合の事務所の改装を計画しています。ビルの2階ワンフロアーをリニューアルするのです。昨年の改装より,難易度はひくそうですが、業務を続けながらの改修なので,工程の組み方に工夫が必要なのと,コンピューターと通信機器の交換があるので、その打合せが重要です。計画的には、主役が女性なので柔らかい雰囲気を、事務所で、どうやって出せば良いのか,出さない方が良いのか,迷っています。
まあ,全体にシンプルで、すっきりしたデザインなので、明るく、やさしい雰囲気が表現できれば,と思っています。五月と七月と九月に工事の予定です。
事務所内部の写真